2017年度 活動日誌

3月 活動日誌

2018年4月1日
GJOコーディネーター 原 真咲

【新学期】

ウクライナでは、2月から後期学期が始まりました。3月は特にてらいもなく通常授業なのですが、その中で今学期からの新しいことというと、日本語を学ぶ1年生にもネイティヴの授業が行われようになりました(入学したばかりの前期はネイティヴとの授業は困難であるということから、1年生との授業は行われません)。1年生はまだ大勢の学生がいて名前を覚えるのも大変ですが、多くの学生が熱心に日本人との授業に取り組んでくれます。

【ロシアの圧力による休講とルネサンスの理想都市】

先月の日誌で書きましたように、新学期が始まって間もなく、ロシアのウクライナに対する圧力により、3月第二週は全学休講となってしまいました。授業がなくなったので、週末にリヴィウの近くの町を見学してきましたので、今回はその話をしたいと思います。

ウクライナにはかつて、多くの城郭都市が存在しました。リヴィウもそのひとつなのですが、多くの都市はその後衰退して村に落ちぶれるか、逆に発展して元の城郭が破壊され、いずれにしても原型を留めていません。そんな中、リヴィウ州ジョーウクワ市(Жовква)は今日まで立派にルネサンス時代の「理想都市」の形を残している稀な例であると言えるでしょう。

16世紀には、ウクライナの諸侯は西欧文明を摂取するため、挙って子弟を留学させるようになります。特に、ルネサンス文化の花開いたイタリア、オランダ、ドイツ諸邦は好んで留学先に選ばれました。その中で、トマス?モアやカンパネッラの理想都市論に触発された彼らは、ウクライナ各地にそれぞれの「理想都市」を作ろうとします。ジョーウクワ市は、そうした潮流の中で生まれた「理想都市」でした。ジョーウクワはポーランド語名では「ジュウキェフ」(?ó?kiew)と言いますが、これは都市の創設者、スタニスワフ?ジュウキェフスキ(Stanis?aw ?ó?kiewski, 1547–1620)に由来します。ジュウキェフスキは、イタリア人建築家たちを招き、自らの「理想都市」を具現化しました。元々あったヴィーンネィケィ村(現在はジョーウクワ市の一部)の辺りに、「理想の人体バランス」を模して幾何学的平面形を持つ城壁が新たに築かれ、城館、教会、役場、イタリア風の歩廊(アーケード)付住宅(すぐ商店街となった)など主要な建築物が計画的に配置されました。城の裏手には、ルネサンス庭園が造られました。この都市では、様々な民族や宗派の人々が調和的に共存する理想の世界の構築が目指されました。一方で、外敵の侵入に耐えるため、堅固な稜堡式城郭としての機能も備えました。城の背後はスヴィニャー川によって守られ、他の辺には水堀が掘られました。さらに、城壁の周囲には多くの稜堡が設置され、防御のための塔も建てられました。各教会は祈りの場となると同時に、分厚い壁と塀に囲われた防御施設としての機能も持たされました。城壁は大砲や鉄砲で武装が施されました。

西側城壁とフレィーンシク門(クラクフ門)
ジョーウクワ城。ルネサンス様式の稜堡式城塞(ただし正面の白い石で囲われた門は マニエリスム様式、また後代にバロック様式に改築された箇所がある)。

ポーランド=リトアニア